サロンの準備、そして呼び名のこと
マイクのテスト音が、誰もいない会場に短く響いた。
小さな勉強会――師匠の私的サロン。俺は記録とコピー整理、音声のチェックを任されている。
思えば、この場所に立つきっかけは、あの日の喫茶店だった。
初めて会った夜、話の終わり際に俺は思い切って名刺を求めた。
その後、師匠の言葉を頼りに、一人で禁欲やRetain-NOTEを実践。
みなもとの出会いや、小さな成果、まだ残る課題をまとめてメールした。
正直、返信は来ないと思っていた。
数日後、短い返信が届いた。
「週末、手伝えるか?」
それが、この私的サロンの助手として関わる始まりだった。
呼び名は自然に「師匠」になった。
周りはみんな「先生」と呼ぶ。本人も訂正しない。
でも俺にとっては、単なる講師でも相談相手でもない。
教科書には載らないことを、実地で教えてくれる人――それが師匠だ。
玲花、現る
サロンが終わり、人がまばらになったラウンジに移る。
落ち着いた照明、低く流れるピアノ。そこで、彼女は現れた。
深みのある紫がかった長い髪が、柔らかく肩にかかっている。
肌は透き通るように白く、目元には落ち着きと知性が漂う。
ワインレッドのトップスに、黒のカーディガン。
シンプルなのに、視線を引き寄せる――そんな存在感。
視線が合うと、ほんのりと口角を上げた。
押し付けがましさのない、大人の余裕をまとった微笑み。
「久しぶり。」
師匠に声をかけたのは、洗練された雰囲気の女性。姿勢が美しい。
師匠が俺に目線を向ける。
「こいつは玲花。昔からの知り合いだ。」
「はじめまして。玲花です。」
落ち着いた声、柔らかい笑み。
目が合った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
禁欲中だ。わかってる。
それでも、所作と視線と言葉の端々に、大人の魅力がある。
揺らぎと距離感

「今日の内容、まとめるのはあなた?」
「はい。録音も回してます。」
短いやり取りなのに、体温が上がるのが分かる。
視線をどこに置くべきか、手はどこに置くか、言葉は速すぎないか――
自分の中の小さな狼狽が顔を出す。
玲花は、少し面白そうに目を細めた。
「落ち着いていて、いい声ね。」
褒められたのに、うまく受け取れない。
俺はグラスの位置を直しながら、視線をテーブルに落とした。
「あ、ちょっと俺、片付けがあるんで…」
俺は席を立ち、片付けの終わっているサロン会場に再び戻った。
師匠の助言
会場の片隅で、録音データの保存と、今日のサロンの要約メモをまとめていた。
ケーブルを巻きながら、さっきのやり取りが頭から離れない。
そんなとき、師匠が俺の横に立ち、低く声をかけてきた。
「さっき、わざと席を立ったな。」
視線を上げると、師匠はわずかに口角を上げている。
「……ああいう相手から距離を取るのは、禁欲中なら悪くない判断だ。火を遠ざければ、確かに燃え移ることはない。」
少し間を置いて、師匠は続けた。
「だがな——」
「避けるんじゃない。魅力は火だ。
火は育てるものだよ。一気に燃やせば灰になる。」
俺が黙っていると、師匠は続けた。
「距離を測れ。まずは立ち姿と所作だ。
視線は“アイコンタクト三角”をゆっくり回す。
返答の前にワン呼吸。手はテーブルの上、掌を少し見せる。
言葉は『結論→一文補足→相手に質問』。
主導権は奪うんじゃない、静かに握るんだ。」
「……やってみます。」
小さな実践
席に戻ると、玲花が微笑んだ。
「さっきの要約、少し見せてもらってもいい?」
姿勢を正し、アイコンタクト三角――左目、右目、口元へ。
結論を短く、補足を一文、最後に質問。
「今日の要旨は三つにまとまります。……この流れで問題なさそうですか?」
「問題ないわ。むしろ、伝わる。」
ワン呼吸置いて、掌をわずかに見せたまま、次の質問へ。
緊張はしている。でも、逃げてはいない。
さっきまでの自分とは、少し違う。
玲花が目を細めた。
「いい目をしてる。さっきより、ずっと。」
胸の奥で、何かが静かに灯る。
余韻
撤収のあと、師匠が一言だけ残した。
「試練はいつでも人の形をして現れる。
それを楽しめるようになったら、一人前だ。」
ラウンジのガラスに、夜景が映る。
玲花の笑みを思い出しながら、俺はゆっくり息を吐いた。
これが、「魅力を力に変える」ということかもしれない。
今日のミニTips(異性との距離感/所作)
- 姿勢:座面は浅く(1/3)、骨盤を立て、肩は落とす。
- 視線:相手の左目→右目→口元の三角を、ゆっくり回す。
- 間:返答の前にワン呼吸。早口は不安のサイン。
- 手:テーブル上に置き、掌を少し見せると安心感を与える。
- 距離:肘一つ分の余白を基本。身を乗り出しすぎない。
- 言葉:結論→一文補足→相手に質問で、静かな主導権を握る。
次回予告
第4話|続けることの難しさ、続けるための設計
小さな手応えのあとに来るのは、いつもの誘惑。
続けるための“仕組み”が、次の鍵になる。

